どうせなら美しい嘘をつきたいものだ

嘘をつくのはよくない行為だが、人にはどうしても嘘をつかなくてはならない時がある。

 

 

例えば、ある親子が崩落事故に巻き込まれたとする。

 

頭上から大きな瓦礫が降り注いだその時、父親は身を呈して我が子を守ろうとした。 

今まで感じたことのない衝撃と共に目の前が真っ暗になっていく。

 

やっと到着した救助隊は、その惨状に息を呑む。

とても生存者がいるとは思えない地獄絵図の中、必死の救助活動が続いた。

 

数時間後、瓦礫の下から救い出された瀕死の父親は最後の力を振り絞り問う、救助の人に。

「...たかひろは、息子は無事ですか?」

救助の人は答える。涙を流しながら。

「大丈夫。無事ですよ。今病院に向かってます」

それを聞くと、安心したように父親は静かに目を閉じた。

 

ドラマや映画などで見る場面だが、救助の人は父親に対して嘘をついている。

生存者はゼロだったのだ。

だが、これから死に行く父親に「残念ながら息子さんはもう...」と真実を告げる必要があるのか。

否!

これは救助の人の優しさからくる、正しく美しい嘘と言えるだろう。

 

 

翻って、私もどうしても嘘をついてしまうことがある。

 

例えば、寝てる時に電話がかかってきて

「あれ、ごめん寝てた?」

と言われた時。

 

「もしもし」というたった一言で相手がこいつ寝てたな、と判断するくらい寝ぼけた声を出しているにもかかわらず、すっとぼけて言ってしまうのだ。

「いや、寝てないよ」とか

「ううん、大丈夫」みたいに明確な答えを示さないとか、しまいには

「寝てはいないけど、寝そうにはなってた」なんて全く無意味なことをのたまう。

 

先の救助の人と比べてどうだろう。

嘘をつく必要性も感じないし、全く美しくないどころか、見苦しい。必死に隠そうとしてるところが。

 

何故こんな風になるのかといえば、良く言えば気遣い。

起こしちゃってゴメンという気持ちを相手に持たせない為の。

だが、気遣いのつもりならもっと他にやりようがあろう。

「助かったよ。この電話が無ければ、二度と目を覚まさなかったかもしれない」というのはやり過ぎだとしても、起こしてくれてありがとう的な方向に持っていくとか。

 

なのに、毎回決まって寝てないアピールに終始してしまう。

ということは、相手への気遣いなどではなく、自らの後ろめたさをごまかしたいが故に嘘をついているのだ。

 

どうして寝ていたことが後ろめたいのか、今現在起きている状態ではちっとも理解できぬ。

が、電話してきた相手は起きて仕事なり趣味なりを謳歌している中、自分は惰眠を貪るという非生産的な感じなのが引っかかるのだろう、おそらく。

ペテルギウスに「怠惰ですねぇ〜」と言われたくないのだ。

ので、

眠っていた脳という人間コンピュータを無理矢理起動してフル回転させ、導き出した答えが

「寝そうになってた、寝てないけど」

なのだ。

なんというスペックの低さ。

 

私の人間コンピュータのスペックが低いのはいかんともしがたい訳で、更にもう一生寝ないというのも不可能。それならば眠りは怠惰という意識自体を変えるしかない。

要は嘘なんてつかずに認めれば良いのだ、寝ていたことを。

 

だが、スペックの低い人間コンピュータは次の機会までに半分忘れて、余計に変な感じになってしまい、

「まあ、寝てたといえば寝てたし、寝てないといえば寝てないし...」

なんてちっとも美しくない答えを出すような気がしてならない。